会告
徳島大学美土利会での個人情報の取り扱いに関する基本方針
平成17年4月1日から個人情報保護法が施行され,個人情報を管理・使用する団体は個人に対して管理する情報の種類と使用目的を明らかにするこ と,および目的外使用の禁止が求められています。徳島大学美土利会では,会員の個人情報として,以下の基本方針に沿って情報を管理いたします。
1)個人情報の保有と正確性の確保
徳島大学美土利会は,会員の個人情報として以下の項目を,会員から収集し保有しています。
1 氏名,2 卒業学科名,修了専攻名,3 所属講座名,指導教員名,4 卒業,修了の年月日,5 勤務先(名称,所在地,所属部課,役職,電話 番号,FAX番号),6 現住所(住所,電話番号,FAX番号),7 資格,8 帰省先(住所,電話番号,FAX番号),9 電子メールアドレス,10 会費納入状況
上記情報の正確性を確保するため,卒業修了時の申告情報に加え,毎年の会報送付時での不明者の調査,および名簿発行年には個別の確認依頼文書を送付し,更新を行っております。
2)個人情報の使用目的
徳島大学美土利会は,保有する会員の個人情報を以下の目的に使用し,その他の目的には使用しません。
1 美土利会から会員への連絡(会報・名簿の郵送など)
2 美土利会会員名簿の発行
3 美土利会各支部から支部会員への連絡のため、支部長および担当幹事に連絡先に関する情報を提供する.
4 徳島大学工業会,各研究室OB会,各学年OB会,その他同窓会など会員の交流活動に資する目的のために,連絡先に関する情報を担当幹事(会員に限る)に提供する.
5 徳島大学からのアンケートや就職活動支援等、大学の教育研究活動に資する目的のために,大学教員・職員に連絡先に関する情報を提供する.
※「名簿掲載不可」の指示をいただいた項目は2の名簿に掲載しません。
3)名簿掲載,情報提供の停止請求について
「名簿掲載不可」の項目について,会報、名簿に綴じ込んだはがき,FAX、電子メールにて美土利会事務局まで通知されたことをもって上記の使用を停止します。ご連絡がない場合は,使用を了承されたものとさせていただきます。
4)個人情報の安全性確保について
上記の目的のため,郵便等の発送,名簿印刷のため個人情報を印刷等業者に貸し出す際,同窓会等の担当幹事,大学の教員・職員に個人情報の電子データを貸し出す際には「美土利会名簿情報使用願い」の記載を課し,目的外への利用禁止,流出事故防止を指示します。
また,電子データを扱う事務局員およびパソコンを限定し,職員に取り扱い注意義務を課すなど,安全性には十分対処いたします。
雑感(斎藤 満宏)
短期大学部18(昭和53年卒)
斎藤 満宏
日栄建設(有)代表取締役
此の度,美土利会会員だよりの原稿の依頼を受けまして何を書こうかな~・・と色々迷いました。と言うのも余りにも書きたい事が有り過ぎるからで す。そこで誰もが一つや二つ心に秘めている((自分にはこの思い或いはこの体験を耐えてきたから,人生前向きに突き進んで来れた))と云う思いを私なりの 軌跡で御披露させて頂きたいと思います。
その①
高校入学までは極平凡な歩みでしたが,入学を境に先ず衝撃の第一波が・・
私は昭和38年度城南高校卒ですが,その時の同期の連中の余りにもかけ離れた凄さに唖然とさせられました,と云うのも当時の入試は10教科千点満 点で私の場合900点で350人中丁度中間の175番でした,これってよくよく考えると私しより上の連中は殆どが満点若しくは其れに近い人ばかしなんか! と思わされたこと。特に驚嘆したのは入学時には既に高校3年までの勉強を済ませていた人が何人もいたことです。時に週刊朝日の全国高校番付第69位で四国 ではダントツ1位東大19人徳大医学部60人と云う状況でした。勿論私は3年間その他多勢組でボンヤリとそうゆう連中を眺めながら卒業しましたが東大へ 行ったニタコンサルタントの仁田忠宏氏に代表される県内一円から集まった俊秀が発するオ-ラや匂いを嗅いだ事でこの連中には負けたくない!と意識したのが ①です。
その②
高卒後、学費の金もなかったので自分なりにバイトをしたり色々試行錯誤の末やっと辿り着いたのが昭和41年の短大応用化学科入学です。此の時短大 開学以来と当時の横田庶務課長に言われたことが2つ,1つは当時の入試英数化物理の内,英以外3科目満点で160人の首席入学だった事。(此の時の入学式 は北東隅の木造のボロボロの講堂紛いのもので昼間の入学式との落差に心の中で燃え盛る屈辱感に油を注いでくれました)。2つ目は悪い方で当時工学部の入り 口には中心に約800角のコンクリ-トの門柱があったのは,皆様も御記憶と存じますが,当時私は学費生活費を稼ぐ為,大型ダンプで登校していましたが,或 夜下校時車の後輪を門柱にぶつけて損傷を与えてしまいました。後輪のセンターボルトは折れたが下りて見るに柱自体は立ってたし暗くて良く解らないけれどこ れ位の亀裂ならと思って其の儘帰ってしまいました。後日これが問題となり,当て逃げで警察の捜査で塗膜片から私の車が特定されました。所が調査の結果,本 学の学生の所業であり,なるだけ穏便に済ませてやりたいとの本学の温情の元,当時の西田義郎学部長自ら警察本部へ同行して頂き平謝りに謝り事なきを得るこ とが出来ました。当時の私の1日は朝5時に起き川原へ6時着で順番待ちでバラスを積んで生コン工場へ,5時過ぎに終業して登校すると6時を過ぎることは しょっちゅうでした。だから事故の時はフラフラで半ば居眠り状態で有りました。ともあれ,こうして3年間学業と仕事を遣り通したことが2つ目の思いです。
その③
こうして無事卒業出来ましたが,その時西田先生から「斎藤君,君の成績なら昼間に編入可だがどうしますか?」と問われましたが,とても自分の設計 にそんな時間と経済的余裕がありません,とお断りしました。すると先生は,では働くのなら就職先をとおっしゃって紹介してくださったのが,徳島市の㈱阿波 製紙研究部研究課入社でした。入学以来色々な場面で怒るでもなく,説教口調でもなく只只物静かにそれでいてまるで慈父のような眼差しで見守って下さったの は私の66年の人生のなかで西田先生お一人だった気がします。改めてこの場で感謝申し上げます。さて,㈱阿波製紙の研究課に,就職したことが人生の大きな 分岐点になりました。一つ目は入社後与えられた研究テ-マが石綿利用の不燃紙の開発でした,そして僅か2年でそれまで国産品はなく全て米国のガフシ-ト社 とコンゴリュ-ム社の輸入品だったクッションフロアーの商品化に国内の三菱や特種等の大手製紙メーカーが成功しない中,私のアイデアで成功しました。(こ の事は昭和46年10月4日の日刊工業新聞の記事に出ています)。当時その成功がどれ程のインパクトをもたらしたかは年商僅か14億の会社が四国管内所得 番付けで四国電力に次ぐ程の規模だった事でもお分かりでしょう。また私は字が大変下手でいつも隣の試験課勤務の妻にレポートを書いて貰っていたのですが, 研究課と試験課は室が違うし行き来が面倒なので書類作成に必要なので手塚さん(未だ結婚していなかったので)を私の隣に座らせてほしいと部長に直談判して 認めてもらい誰にも文句を言わせなかったことや県外出張時には三木俊治社長以外は役員や部長といえども船や汽車だった中,私は三木社長と二人で大阪出張を 命じられたとき飛行機で連れていってもらえると云う破格の待遇でした。その後は入社以来石綿に関する色々な文献を調べるに石綿と発ガンの関係が言われてい た事を入社後直ぐに知っていたので,妻には入社2年で退社してもらい,私もこのままでは危ないなと思い4年で退社しました。三つ目の思いとは小さな分野で あっても入社2年目にして国内初の分野を切り開いたと云う事です。.....
その④
これが私にとって人生最大の心のよりどころ((此の事があったから私はどの様な問題も乗り越えて今まで突っ走って来る事が出来ました。))ここで はその・・さわり・・のみ紹介します,私は昭和48年3月末日阿波製紙退社4月8日結婚式4月10日新婚旅行を車で世界一周と云う日本でのシガラミを全て なげうった冒険旅行に出ました。(当時の徳新5月13日版に1頁全部と帰国後の連載レポ-トを参照)時は石油ショックの真っただ中期間は1年全行程6万7 千キロ道中殆どが野宿で1日の食費は2百円という過酷なものでした。
そのダイジェスト版は次回にでも・・一例ソ連のキエフよりモスクワへ北上中ガス欠への恐れから定められていた旅行用ルートをそれて道路片側に戦車 が切れ目無く並ぶミリタリーエリア内のガススタンドでソ連軍に拘束されて取り調べを受けた事や・・パキスタン南クエタでパシュト-ン人主体のクエタ解放戦 線(現在のタリバンの源流です。)と政府軍の銃撃戦只中に遭遇した事等々一般の日本人なら想像も出来ない様なハプニングの連続・・・・・《さて,ここまで は美土利会との接点は全く出て来ませんが...昭和49年4月丸1年後無事冒険旅行を終えて帰国できました。この時全財産を使い果たして手持ちの金は僅か 5万円しか残っていませんでした。そこから50年4月に短大土木に西田先生にお願いして編入させてもらい同時に会社を設立し,地盤,看板,カバン,の無い 身全くの徒手空挙の出で立ちで建設業へと船出しました。その経過たるやまるで,明治時代の富国強兵策下の富岡製糸工場の女工哀史もかくありなんと思わせる 日々の連続・・》此の事のダイジェストは次次回にでも・・・・