短期大学部10(昭和45年卒)
                                   工学部21(昭和48年卒)
                                           村岡  勉
                        (徳島県立阿南工業高等学校期限付講師)

 美土利会の皆様こんにちは。小生短大10期生・学部21期生の村岡勉と申します。
工業短期大学部卒業後縁ありまして工学部の土木工学科に編入学,卒業と同時に
工業高校教員に採用され一昨年定年退職。現在は徳島県立阿南工業高等学校情報
土木コ-スで期限付き講師をしております。
 大学3年までは教員の世界に身を置くなんて全く考えてもいませんでした。卒業
すれば土木の現場でバリバリ働く。地球上に二つとない構造物を造って人の役に
立ちたい。こんな夢をもっていた矢先のことです。教授から「君,徳島県の工業
高校の先生にならないか」という話が飛び込んできました。
 「工業高校の先生?」小生にとってはまさに未知なる世界の話です。決心する
まではかなりの時間を要したのはいうまでもありません。期待と不安が入り交じ
るなか,最初に赴任したのが阿南工業高校でした。土木科の教員として第一声を
発したあの日の緊張を今でも忘れることはありません。19年間過ごした阿南工業
高校から転勤により徳島工業高等学校(現徳島科学技術高等学校)へ。徳工で10
年間教鞭をとり再び阿南工業高等学校へ転勤。7年後に36年間の教員生活に目出た
くピリオドを打つことができました。
 若干24歳。小生が高校教員として教壇に立った歳です。当時テレビでは学園も
ののドラマが数多く制作され放映されていました。なかでも中村雅俊がラグビ-
部の顧問役で人気を博した『われら青春』。いずみたくが作曲テ-マ曲やドラマ
のクライマックスで中村が歌う『ふれあい』に若者の心が和まされる時代でもあ
りました。“そうだ、俺はギタ-が弾ける”。新入生を対象に実施される集団宿
泊訓練。キャンプファイヤ-ではギタ-と歌で大いに盛り上がりました。生徒と
共に歌った歌声の数々,あの時の感動は未だ小生の脳裏から消え去ることはあり
ません。
 工業高校を卒業していく生徒はほとんどが就職します。当時土木科への求人数
は卒業生一人に対して平均して10社以上の求人がありました。まさに売り手市場。
そんななか卒業生は大きな期待を胸に大手建設会社に就職していきました。
 高校には授業以外に部活動の指導があります。小生は若いときから登山が趣味
で,県内の剣山とか三嶺によく登っておりました。30も半ばを過ぎた頃,山好き
の先輩教員から一緒にワンダ-フォ-ゲル部を創設しようということになり,生
徒に呼びかけたところ10人ほど集まってきました。山でテントを張り,同じ釜の
飯を部員と一緒に食べる。山行中,あるいはテント内で若者の夢を聞いたり語った
り。師弟の関係を超えた会話は互いに親近感を高め,両者を随分と成長させるも
のです。小生も生徒に随分成長させてもらったなと今でも感謝しております。
 もう一つの部活動は写真部の思い出です。いくら風景が美しくても,風景だけ
撮ったのでは絵はがきにかなわない。絵はがきより優れた写真を撮るには,その
一コマの中に生活感漂う人物とか動物を配すること。構図は無駄なく。それが小
生の写真に対する心配りです。趣味が昂じて最近は舞台役者さんのインタビュ-
写真を撮る機会に恵まれています。市民劇場で徳島の舞台に立った有名な役者さ
んの写真。もう40人を超えるでしょうか。役者さんが語っている“生きた写真“を
今後も撮り続けたいと思っています。

 

               中林海岸(徳島県阿南市)のだるま朝日 (平成23年1月5日撮影)

短期大学部18回(昭和53年卒)
木村 照雄


 美土会会員の皆様におかれましては、お元気でご活躍のこととお喜び申し上げます。
 東日本大震災の被災地域の皆様には謹んでお見舞い申し上げます。そして、一日も早く復旧されますことをお祈りいたします。
  去る6月下旬に1泊2日で大阪へ行く機会があり、高速バスで徳島自動車道の吉野川ハイウエーオアシス(足代)から出発しました。お天気も梅雨の合間の「晴 れ」と恵まれ、車内からの探索は絶好の機会でありました。私は出来るだけ外の風景を観察(?)するようにしていますので。《例えば東京への旅行の場合で昼 間の新幹線利用では道中の目的が主に2点ありました。1点目は、各河川における状況(吉野川のような水量が有るのかどうか・河川敷の状況等)。2点目は、 名古屋駅あたりを過ぎて東への丘陵地帯での延々と続く茶畑、また農作物の作付け状況などを見ることでした》。今回の大阪行きでも、大鳴門橋・明石海峡大橋 の世界に誇れる日本の技術水準を改めて感じたところです。また神戸では先の大震災の爪痕を感じない復興した町並み。終点の大阪駅、さらに高層ビルの連なる 大阪市内等久しぶりの都会の活気と喧噪を味わったところです。
 先の戦争の壊滅的な状況の中から我が国が飛躍的に復興した大きな要因の一つに次ぎ の事が挙げられています。戦後、全国の農山魚村の次三男(女)達が仕事を求めて都会で出て行った。カバン一つに、表は「自由」ではあるが裏は働かなければ 「飢える」という片道キップを握りしめて。異境の地で働き、出会い、所帯を持ち、必死で生きてきた結果が日本の戦後の復興の一端を担った・・・と聞いてお ります。
 卒業以来41年が経過しました。落ち着いて会員名簿を眺めてみると「勤務先・役職名」欄が空欄の諸兄がみられます(当然私もその内の一人です)。
  定年退職により職業生活からリタイアした場合。定年退職とは会社との別れをはじめ、「7つの別れ」が訪れてくるといわれます。会社との別れが具体的になる のは先ず肩書きとの別れです。これまでは「部長」とか「課長」と呼ばれ尊敬を受けていたのに退職後は「ただの人」になってしまう。
 3つめは金と の別れです。働かなくなるのですから賃金がなくなるのは当然のことです。4つめは定年をきっかけに突然やってくるというものではないが家族との別れです。 子供達は独立してしまい配偶者にも先立たれることがあるかもしれません。中には、長年連れ添った妻から三下り半をつきつけられるということもないとは言い 切れません。以下の項目の詳細は紙面の関係で省略致します。5つめは生き生きとした情報との別れです。6つめは人間関係の縮小です。7つめは健康との別れ です。生涯設計とか人生設計という言葉を耳にするようになったのは、1975年当時の三木首相の私的諮問機関である学者グループによって作成された「ライ フスタイル計画」からです。

定年からの出発

 定年は、職業生活の終着駅だがそこで人生が終わるのではなくそこから職業人以外の自分を発見したり、創造したりする可能性秘めた始発駅です。定年 までの生活は、組織に縛られたり、他人を支配したり他人に服従したりの状況であるが、定年後の生活は、私利私欲・他人の評価に思い悩む事からの解放、人生 を楽しむ自由、公益のために働く自由など人生の最も恵まれた時期と言われています。ある機関誌で次の文章に出会いました。
 『花眼(かがん)という言葉を見つけた。花のように可愛い女性の瞳ではなくて老眼のことだそうだ。
  若い頃は仕事や生活に取り紛れ足早に通り過ぎた人生だが、眼に衰えを覚える年齢になって初めて誰もが季節の花に心寄せ人情の機微に敏感になる。花の眼とは 年配者がすべての事を飲み込んで優しくものに接する心に違いない。「要領の良い人は早足の旅人に似ている。人より先に到達できる代わりに道端の肝心のもの を見落としている・・・・」と言った作家がいたそうだが、花眼の眼を持つことは素晴らしいことなのかもしれない』。

工学部15(昭和42年卒)
藤澤 邦彦

 

 卒業以来四十数年が過ぎました。公務員生活34年,会社生活七年を無事に終えて今は年金生活を楽しんでおります。
 毎日かわいい孫たちの送り迎えをしながら,腰痛対策のため週2回プ-ルに通っています。親しい仲間とゴルフをしたり,近くの家庭菜園で野菜つくりに挑戦しています。中でも指先を使うのでボケ防止になるのではと始めた陶芸は十年になりますが今も夢中になっています。
  陶芸は完成まで時間がかかりますが,集中力がいり面白いです。少し陶芸について書かせてもらいます。まず使用する粘土ですが,陶器土と磁器土があります が,私は陶器粘土を使っています。作陶で一番大事なのが土練りです。練り方は荒練り,菊練りがありますが,十分に練れていないと作陶中に気泡があったり, 塊が出てきて失敗します。
 作品つくりは手びねり,ひも作り,たたら作りロクロつくりなどいろんな方法があります。最初はてびねり,ひも作りから始めます。私は今電動ロクロに夢中になっております。
 知り合いの先生の手ほどきを受けながら,抹茶茶碗,花瓶,つぼなどを作っております。なかなか思うようにできませんが,微妙な指先の動きにより作品が出来上がってゆくのがおもしろく楽しいものです。なかなか自分の思うようにできません。
 また,陶芸の仲間たちとその年の干支つくりもしております。昨年はトラ,今年はウサギをつくり,知り合いの人たちに配り喜んでもらいました。
作品つくりが終わる自然乾燥して,窯に入れて800度で8時間素焼きして,その後下絵つけなどをして釉薬を付けて1200度で十数時間本焼きして出来上がりです。窯も灯油窯,ガス窯,電気窯,登り窯などがありますが,私はガス窯,電気窯を使っております。
 焼き方には酸化焼成,還元焼成などがありますが,それぞれの焼き方によって違った雰囲気の作品が出来上がります。焼いてみないとどんな作品になるのかわからないので窯出しの時が一番楽しみです。なかなか思っている色には焼きあがりません。
 作陶しているときは他のことは何も考えずそれに集中します。また指先を使うのでボケ防止なり健康維持になると思って続けています。一度皆さんも体験してはどうですか。
 最後に,私の愚作品を写真で紹介します。

 

工学部10(昭和37年卒) 徳川 巌


◎37会(37年卒土木,機械の合同)同窓会報告
5 月22,23の両日,ハ-トンホテル京都で開催致しました。今では恒例となった37会,毎年お世話して下さる土木,井上,機械,高畑両氏には,感謝の気持 ちで一杯です。参加者一同楽しい一時を過ごさせて頂きました。早いもので,来年は50周年,徳島で盛大に行うとの事,翌日はあいにくの天候でしたが,ゴル フ組(大津カントリ-クラブ)観光組(宇治方面)に分かれてホテル出発,最終は京都駅で合流し,来年の再会を約して解散しました。

 

                                                 ① ホテルにて

 

                                               ② 大津カントリ-クラブ

 


                                    

                                      ③ 宇治 黄檗山万福寺 隠元様開祖

 ◎ 歌とのかかわり
    子供の頃より音楽好きの二人の兄がいました。二才違いの兄(機械35年卒,大田区で合唱団北極星創立)の影響で中学から合唱を始め,大学ではリ-ダ-クラ イス(徳大男声合唱団)に,既に兄貴も歌っていたので入学と同時に入団,工学部からは4~6名で少数派でした。美土利会にも後輩が一人いた。ここで合唱の 和音が作る倍音の醍醐味に取付かれ,朝6時起きして,隣の学芸学部(現在の鳴門教育大学)の音楽室にピアノの練習も兼ねてよく通ったものです。
 社会人となり東京に来て,合唱団北極星,目黒混声合唱団,会社の合唱団に数年属していましたが,高度生長時は仕事の負担増になり30才前後で諦めました。
以来35年間ほとんど無縁となりました。後年職場換し,時間と気持ちの余裕ができ,歌の世界に戻ろうと考えたが,稽古時間が割合自由に選べる民謡界に転向しました。
私 は竹もの(尺八の曲)が好きで,尺八に関心をもっていました。数年後同窓会で高嶋君(学生時代の柔道の仲間,今は漢詩の作者として尊敬,会報に数回投稿) の吟詠を聞き,詩吟も興味を持ち,共通の伴奏楽器である尺八を習い始め早や「首振3年コロ八年」になりました。昨年より社会に少しでも奉仕しようと仲間と 一緒に老人ホ-ムを慰問して民謡,詩吟,尺八等を奏でています。
 仕事から完全に離れた後,再び合唱界にも復帰,兄貴も再スタ-ト(湘南フィルハ -モニ-合唱団≒160名,毎年横浜港未来会館で演奏会)を聴き,私も8年前より松戸混声合唱団(大曲をオ-ケストラと共に歌う)を合言葉に創立された合 唱団,毎年プロのオ-ケストラ及び第一線で活躍中のソリストを招いて共演)に入団し,定期練習と合宿で,より透明度の高いハ-モニ-を作り,音楽による心 の癒しを求めています。
数年前より,市主催臨時編制,ベ-トヴェン第9を歌う会も参加しています。
クラシック音楽の中で,もっとも世に知 られた曲の一つであり,年末が近づくと国内のあちらこちらで演奏されます。長野オリンピック開会式で曲の一部が世界6ケ国で同時演奏されると言う単なる楽 曲を超えた世界遺産として受け入れられています。理想的な世界へ向かう喜びを表して祝典的な場や祈りを捧げる場に相応しく,べ-トヴェン自身の「苦悩を通 じて歓喜へ」というモット-が示されている。第4楽章けたたましいファンファ-レが響き渡り,低弦チェロとコントラバスがまるで語りかけるような調べを奏 でる。最後には「歓喜よ神々の麗しき霊感よ」高らかに楽園への道へ全力疾走で幕です。森羅万象を全て取込んだ誠に重厚な交響曲です。
奇しくも,日本の第9の発祥地鳴門市大麻町の南側,藍住町で育ちました。然し当時は神社の裏庭にドイツ村があること位しか知りませんでした。数年前に訪れました。素晴らしい記念館が出来てるのに驚いた。
○ ご存知ですか?音階1ポイント
①  洋楽の基本音(A)ハ調のラ音(440サイクル)ラジオの時報音,オ-ケストラ演奏直前の楽器音合わせ音です。世界共通音
② 邦楽の基本音(D)いち壱こつ越,ハ調のレの音(294 サイクル)雅楽,箏,三味線,尺八,昔の童歌の基本音階,仏壇のリンの音階,お坊さんがお経のスタ-ト音階の基準として用いる為,鳴らす必要もある
③ お寺の梵鐘も,音階は決まっています。大小さまざまですが名鐘は黄鐘調 ,ハ調のラ又はミ音が大半です。
④ ピアノの鍵盤のオクタ-ブ12音階,全て倍音,波長n=1/n(1,2,3……n)から作られた音,音源は級数的に小さくなる為,一部の協和音n=1~4以外は耳では聞き取れませんので,不協和音は表面には現れない。


 第22回松戸市民コンサ-ト第九演奏会 2010年12月19日 森のホ-ル21大ホ-ル

◎ 私とテニス
   中学校で1年位,社会人1年生から東京で5年位,実力は推して知るべし,談合で鋼橋の不振時,余生を楽しもうと余力を残し,約8.5年前に仕事を切りあ げました。当初は生活環境の変化にとまどいを感じ,地域や公民館講座に参加し,仲間作りからスタ-トし,だんだん趣味の道に没頭していった。
先ず健康管理,体を動かす事,ゴルフから,より手軽にでき運動量も多く,かつ経済的なテニスに戻りました。教室通いからスタ-トし,コ-チの進めで,現在の常盤平テニスクラブに入会(本年50周年を迎えた伝統のクラブ)
最初は誠に厳しいものでした。良い人も居るが平日組には,実力のある意地の悪いオバサンさんも多い。彼女たちに苛められました。何時かは仕返しの出来る日を夢みつつ,のめり込んで行きました。
以来8年余りが経過ました。適度のストレスはあるがこれに向き合うことも健康を保つことに役立つ秘訣だと思います。今では対等にできる会員も出来,合宿や市の大会に出る機会にも恵まれました。
ここまでやれたのも,ひとえに彼女達のお陰だと感謝しています。
然 し技術もさる事ながら,寄る年波に足腰の痛みで身体の一部に鉛でも張付いているような,気持ちと裏腹に,なかなか足が前に進まなくなりました。 シニアの 大会では年齢別なので条件は同じですが……テニスは生涯のスポ-ツとして明るく元気よく気持ちよく,思いやりの心を大切にしながら80才位まで続けたいと 思いますが?,皆様も時間が取れればいかがですか。昔に比べれば、かなりコートの数も増えております。


ときわ平テニスクラブ50周年記念兼城悦子プロ(旧姓井上悦子)特別レッスン2011.04.29

叙勲・褒章

 永年のご功績により,下記の方が叙勲・褒章の栄に浴されました。心よりおよろこび申し上げますと共に,今後ますますご健勝にてご活躍のほどをお祈り申し上げます。                                

平成23年秋 

◇河野  清(徳島大学名誉教授) 

     瑞宝中綬章

    〒770-0872 徳島市北沖の洲町1丁目11-17

 

なお,叙勲・褒章について入手できる情報が限られていますので疎漏があります。ご存知の方の情報をお待ちいたしております。

 
  河野先生 叙勲 お祝い写真