学部生活と近況
工学部建設工学科(昼間コース14)(平成23年卒)
日名達也
徳島大学大学院 環境創生工学専攻
私の大学生活で一番思い出に残ったことといえば部活です。高校から続けているハンドボール部に入り、四年間続けまし た。私が入部した年に、比較的多くの部員が入ったため、自然とチームの構成も同期中心でした。最初の大会では高校と大学のレベルの違いに圧倒されました が、全員で4年間頑張ろうという意識を持つことができました。そういうこともあってか、3年生の中国四国大会で、徳島大学ハンドボール部史上最高の成績を 残すことが出来ました。そのとき、副部長を務めていたため喜びもかなり大きなものがありました。部長を頑張ってくれたO君は大変だったと思いますが、チー ムを引っ張ってまとめてくれたことにとても感謝しています。また、副部長をすることで、練習内容をどうするか、雰囲気をよくするにはどうすればよいかな ど、部活をまとめる大変さを経験できました。
現在、私は大学院に通っていますが、就職した同期の部員もいます。後輩の試合があるときは同期で集まって見に行くな ど、学部を卒業してからも交流は続いています。この部活に入ったことにより、経験のほかに今後も付き合っていける仲間を得ることが出来ました。つくづくこ の部活に入部してよかったと思います。
部活以外で大学の大切なことといえばもちろん学業です。テストやレポートなど、大変だと思うことがいっぱいありまし た。特に測量の試験は、先輩方から大変だということを聞いていたということと、一年前期の一番大きな試験ということもあり、同じ学部の友人と頑張って図書 館にこもって勉強したことを覚えています。そのときは大変でしたが、今となってはいい思い出です。
学部では、様々なイベントも多くありました。その中でも盛り上がったのがソフトボール大会です。建設工学科全学年で優勝を争うソフトボール大会は他学年との交流もあり、とても有意義なものでした。その他のイベントも盛り上がるものばかりで楽しい思い出しかありません。
そして、一番の大きなイベントといえば謝恩会です。私は大学の4年間副総代を務めたのですが、総代、副総代は主に建設 工学科で行われるイベントを企画、運営する仕事です。謝恩会もそのうちの一つでした。謝恩会は他のイベントと違いとても大きなもので準備が大変でした。な ぜなら、ホテルの大きな部屋を予約するところから始めて、準備することがとても多かったからです。しかし、謝恩会委員と協力することで、涙あり笑いありの とても盛り上がる楽しい会にすることができました。これらの副総代の仕事を通じて、イベントを企画、運営する大変さを実感することができ、また、それらが 成功した時の達成感を味わうことができました。この貴重な経験はこれから生きていくうえできっと役に立つと思います。
最後に近況ですが、今は徳島大学大学院で研究に取り組んでいます。学部生活があっという間に過ぎたように、大学院生活もすぐに終わってしまうと思います。悔いを残さないよう、学業、遊びなどメリハリのある生活を送りたいと思います。
東日本大震災で学ぶこと
工学部9 (昭和36年卒)
藤 田 昭 治
(株) かんこう 顧問
はじめに
平成23年3月11日(金)14:46三陸沖を震源とするマグネチュード8.8(後日修正9.0)の巨大地震が発生し た。インターネットで検索すると津波予報で高さ10㍍(大阪と徳島は3㍍) と表記されていた。その後次々と被害状況のニュースが流れ、阪神・淡路大震災を思い出しながら、これは大震災になると直感した。理由は偶然にも、私が21 世紀研究機構の阪神・淡路大震災記念[人と未来防災センター]で、東南海や南海地震による大津波によって多くの都市が水没するというシミュレーションを見 た直後に発生したためであった。
1 巨大津波の尊い教訓
大災害が発生する度に、過去に学習したはずの災害防止の教えが、なぜ守られないのかと自問する。今も思うことは今回学習したことをどのような形で次世代に引き継ぐかということ。
東日本巨大地震の大きさよりも、津波の大きさと、危機管理不足に驚いた。想定外だとか、過小評価だと云われているが、津波は河港の地形や大きさによって予報より高くなり、高地高台まで進む巨大津波になる等大きなリスクがあることは先刻承知のはず。
テレビ放映 1・ 堤防越しになだれ込んだ巨大津波の脅威
そのため津波対策は、可能な限り高く遠くへ迅速に避難することである。明治三陸大津波等過去の大津波で被害を受けた先 人の教えを守り、津波到達点の石碑より下には家を建てなかった地区は今回の災禍を免れた。これは天災に対する自己責任を果たし、リスク対策ができていたと いうこと。
テレビ放映 2・ 街を飲み込んだ巨大津波
リスク対策としては①リスク保有、②リスク削減、③リスク回避、そして保険等による④リスク移転の4つのリスク対策が考えられている。
漁業の場合、自然に対しては利益と損失負担を受容するために、リスクを保有しながらもリスク削減とリスク移転をせざるを得ない一面もある。
即ち、沿岸の水産事業をサポートしていくためにはリスクが伴うということ。万全を期し、コストを無視して「リスクを回避」することは実際的には無理である。「リスクを保有」しながら地域毎のリスク対策を講じざるを得ない。
また、被災地の復旧復興のまちづくりは、リスク対策とコストを踏まえて、国や自治体と企業いわゆる官民一体で支援する こと。公共が高地高台の住いと漁業等沿岸施設の間に、便利で安全に配慮したアクセスや高層の緊急避難施設等の防災環境を整備すること。具体的には、6月に 発表された「復興構想会議からの提言」を受け、地域毎に住民が何を求めているかをさらに協議し、優先施策から早急に実施すること。防災環境が整備されれば 住民も「命てんでんこ」の自己責任力を発揮して、先人の教えを守り、自らのリスク削除ができるはず。
2 福島原発事故は人災
原子炉圧力容器とタービンの耐震設計は当然として、特に重要なことは各建屋を繋ぐ配管の耐震性である。即ち発電所全体 の耐震対策とともに万一に備えて、住民の被曝防止対策を講ずること。また地震大国としてのリスク管理と危機管理について徹底的に議論して対処すること。
福島原発はそれが何処までできていたのか、被曝その他の被害拡大の原因がそこにあったと思う。地震と津波によって原子 炉とタービン建屋が破壊し、放射性物質が漏れた。非常電源や各配管等の耐震性確保も含めて総合的な技術監理としてのリスクマネジメントが不足していたとい うこと。
福島原発の水素爆発、放射性物質の漏洩、原発冷却と汚染水除去の難航、事故評価尺度が最悪のレベル7になる等、刻々と 発表される被害状況からみて、もはや日本だけでなく世界的な大災害となった。調査ロボット等で改めて現場を調査した結果は当初の発表と尽く異なっており、 東電と政府は全く信用を失った。7月現在もまだトラブル続きで、原発安定化作業は進展しない。
また発電コストについても問題視されていることが5, 7月にテレビで放映された。電源三法交付金開発費等加算すると 原発が最も高い。リスクもコストも最も高い。さらに人体被曝安全基準値も変わってきた。国民はいったい何を信じたらいいのか。国民が自ら問題意識を持って 勉強するしかない。
3 脱原発か原発継続か
当初の危機管理不足と発生直後の初期活動の遅れから今も放射線や汚染水が漏れている。わが国のこの様な現況を見聞するにつけ、地震対策と原子力発電の技術を世界に発信してきた日本だけに誠に残念である。
チェルノブイリとスリーマイルに続く福島の事故で実証された原発事故の脅威。放射線という極めて高いリスクを持つ原発建設は設備投資や多重チェック体制の確立及び教育訓練等によって完全にリスクを削除することは不可能であることが実証された。
今後技術革新により放射線のリスクが完全に無くなるまでは、次世代の人命を守ることを最優先として、リスクを保有しな いで、リスクを 回避し、適切なリソース(人的資源と情報)配分を行って、太陽光、風力その他のエネルギーを求めるか。はたまたこれまでの利益優先で投資に未練を持ち、人 命を危険に曝すリスクの高い今の原発を再開するのか。この度東電の総会で、多くの個人株主が脱原発を提案しながら、金融関係等の大株主の反対で否決され た。次世代の環境と人命を犠牲にしてでも、産業経済が停滞することを避けるためという方便で原発を続けるのか。次世代の環境保全よりも、リスクの高い原発 頼みの経済進展を選ぶという。
欧州ではスイス、ドイツ、イタリア等は福島の事故で脱原発に舵を切った。
4月のテレビ・ニュースによると、アメリカNRG エナジーは「株主の理解が得られない」として、建設予定の原発を中止したと発表した。
わが国も、人の暮しライフスタイル、価値観を見直すか否かまさに国民の自己責任力に懸かっている。
おわりに
過去の大震災以上の震災が発生すると、その都度震災対策が見直され実施されてきた。しかし、こと原発となると高濃度の 放射線漏れという極めて高いリスクが伴う。一旦事故が発生すると取り返しがつかない。正直なところ私も福島原発事故のお陰で原発が如何なるものか、改めて 勉強した。この原発事故を教訓として将来の自然エネルギーについて研究開発を推進すること。そして福島原発事故が最大のレベル7となったことは、この重大 な人災についての反省を促したもの。当原発を安全無害化し、その影響地域の全産業や居住環境を地震に強い町に復興することは当然として、この機会に過度の 電力依存ライフスタイルを改めること。スイス等欧州の様に原発そのものを見直すと同時に、原発に替わる環境にやさしく新しいエネルギーを研究開発するこ と。それで新しい雇用を創出することが重要である。国はそのための予算をさらに効率的に集中投資する等の早急な開発促進を図る必要がある。
振り返れば広島・長崎の被爆、この度は福島の被曝も経験した日本であるからこそ覚悟を決めて、既得権益等これまでの発 想を改め、世界中の子供達にとって住みよい地球環境を引き継ぐよう最大限の努力をする。それを世界に発信し続けること。国民一人ひとり、私達が学ぶべきこ とは「世界が、国が、社会が或いは企業が」と逃げないで、次世代に対して持つべき自己責任力を養わなければならないということである。
鳥羽・伊勢路での同窓会
工学部14(昭和41年卒)
春 本 繁
昨年奈良で行われた同窓会の引き継ぎで、次回開催は中部地区と決まりました。世話人は、名古屋市役所を無事卒業し、鈴鹿市に居住する徳田裕彦君と 決まりました。中部地区での同窓会は初めて、しかも世話人が一人では大変と言うことで、私が世話人補助となりました。徳田君より、次回は鳥羽で宴会を、翌 日は伊勢神宮でおはらいを予定しているとの説明があり、全員拍手で承認でした。大学土木14期生の平成23年度同窓会は、6月2・3日、鳥羽・伊勢路で行 われました。6月2日、6時45分発のマリンライナーで高松を出発しました。新幹線・近鉄特急と乗り継ぎ、11時半頃近鉄鳥羽に着きました。改札口には、 準備万端の用意をした徳田君の顔が見えました。1年振りの再会で懐かしさがこみあげてきました。昼食に名物「伊勢うどん」を食べました。「讃岐うどん」と はとても似つかぬものでしたが、とても美味でした。うどんの世界もひろいなあと感心しました。
宴会場の「鳥羽シーサイドホテル」に、午後1時前無事到着しました。宴会は午後6時からですが、例年は2時過ぎからひとり、また、ひとりと集まっ てくるので、2時から受付を始めました。始めてまもなく、関東3人組が到着しました。玉木君の話では、もう1時間後にしようと言ったが、川崎君が早くと言 うことで一番乗りとなったようです。早く到着した者は連れ立って温泉に入った後、早速ビール宴会の始まりです。その後、四国・九州・大阪・神戸と全国各地 から集まり、午後5時半過ぎ総勢21名全員集合しました。
受付で「お世話ご苦労さん」と、言われるたびに少し気が引けていました。その訳は、お世話は徳田君が一人で鳥羽・伊勢に2度3度と足を運び、同窓会が円滑に進むよう準備をされたからです。
午後6時過ぎ、徳田君の挨拶の後、前回の世話人藤原君の乾杯の音頭で宴会が始まりました。語りながら飲みながら、そして、食べながらの楽しい宴会 の始まりです。1年振りの元気な再会を懐かしむ顔と顔、会場のあちこちは、喜びと笑いの声、そして、笑顔で満ち溢れていました。
しばらくして、近況報告が始まりました。それぞれの報告に相槌やら拍手やら、宴会は佳境に入りました。最後は来年の担当地区の決定です。満場一致 で、関東地区に決まりました。「元気でスカイツリーで会いましょう」と再会を約束しました。1次会の後、会場を移してまた宴会が始まりました。2次会会場 の後始末を終えると、夜半前でした。延々6時間の宴会、全員元気楽しいひとときでした。
「鳥羽シーサイドホテル」前にて(6/3朝)
翌日は、鳥羽湾巡り、二見夫婦岩見学、伊勢神宮・内宮参拝およびご祈祷、おはらい町での昼食、おかげ横丁見学、等々盛りだくさんの場所を楽しみま した。なかでも伊勢神宮でのご祈祷は、生涯忘れられない思い出となりました。内宮にてバスに乗車、それぞれ帰路となりました。待ちに待った同窓会もここで 終了、あっという間に別れとなりました。同期生一同、常日頃の行いが良いのか、前日の悪天候も好天となり、1泊2日の楽しい同窓会となりました。皆さん、 ご協力ありがとうございました。
数日後、世話人徳田君より写真と会計報告が送られてきました。これで世話役完了、徳田君ほんとうにお疲れ様でした。そして、お世話ありがとうござ いました。私も、4時間足らずの受付・会費の集金、そして、美土利会会誌寄稿と、少しは世話人補助の役目を果たせたかなと思っています。 還暦を過ぎてか ら、同窓会が益々盛会となりました。喜ばしいことです。古希と言わず、喜寿・米寿までも、元気で再会出来るよう、お互い健康管理に心掛けましょう。